2007年11月03日

道後温泉 3000年の歴史

道後温泉の歴史の概略と名前の由来

 道後温泉は、3000年の歴史を持つ日本国内で最も古い温泉として知られています。
その歴史は神話の時代から近代に至るまで様々なシーンで登場し、
時々の皇族、文豪、市民に愛されて続けてきました。

 道後という名前は645年の大化の改新によって各国に国府が置かれ、
京都に近い方より道前、道中、道後と名づけられたのが由来です。
その名残で、現在温泉のある地域を特に道後と呼んでいます。

またこの地はかつて伊予の国(いよのくに)とも呼ばれていましたが、
湯の国(ゆのくに)」が転じて「伊予の国」となったという説があります。

道後温泉の歴史・・・古代

■ 白鷺伝説・源泉の発見(約3000年前)
 足に傷を負って苦しんでいた白鷺が、
岩間から湧き出る温泉に毎日足を浸していたところ、
傷は完全に癒えてしまい、元気になって飛び去っていった。  
これを見た人たちが不思議に思い、入浴してみたところ、
爽快で疲労を回復することもでき、
また病人もいつのまにか全快したという伝説が源泉の発見とされています。

その後この白鷺は道後温泉のシンボルとなり、
道後温泉本館の大屋根の上にある振鷺閣(しんろかく)の上には、
まるで白鷺が舞い降りたかのように備えられています。

ちなみに、伝説の白鷲が舞い降りたとされる跡(鷺石)が
放生園という小公園の一角に据えられています。

放生園の片隅にある鷺石 
放生園の片隅にある鷺石


■ 神話・伝説(紀元前)
 神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)が
出雲の国から伊予の国への旅の途中、少彦名命が急病に苦しんだ際に、
大国主命は小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めました。

するとたちまち元気を取り戻して、
喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたという伝説が残っています。

少彦名命が踊ったとされる石は、
道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られています。


■ 聖徳太子の来湯(596年:飛鳥時代)
 聖徳太子は596年に病気療養のため
道後温泉に滞在したと予国風土記逸文に記されています。

その時太子は伊予の国の風景と温泉を絶賛し、
記念に碑文を残したとされていますが、今日までその碑文は発見されていません。

このことは道後温泉史の最大の謎であり、
一説には14世紀に河野氏(戦国大名)が湯築城(ゆづきじょう)造営の際に
持ち去ったのではとされています。

ハイカラ通り中ほどの「椿の湯」南側の緑地には
聖徳太子来湯の模様を記した碑が建立されています。


■ 日本書紀、万葉集に登場
 日本書紀(720年:奈良時代)や伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)社伝には、
景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・
舒明天皇・斉明天皇・中大兄皇子(天智天皇)・天武天皇など
多くの皇族方が行幸したと記されています。

また万葉集(7世紀後半〜8世紀後半)には斉明天皇が行幸した時に額田王が詠んだ歌
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな」
が記されています。

伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)


道後温泉の歴史・・・中世
■ 河野氏による湯築城の築城(14世紀:南北朝時代)

 道後温泉に隣接した丘陵部に、
伊予の国の大名河野通盛(こうのみちもり)によって湯築城(ゆづきじょう)が築城しました。

築城以来河野氏の本城となり、
伊予の国の政治、経済、文化の中心として栄えました。

最近の発掘調査によって出土した遺物は26万点以上あり、
時の考古学者を大変驚かせるとともに、
中世の日常生活を探る上での貴重な資料であるとして今なお研究が進められています。
現在は「道後公園」の名で園内・資料館を無料で散策できるようになっています。


道後公園(湯築城跡)
道後公園(湯築城跡)


■ 松山城主として松平定行が入部する(1635年:江戸時代初期〜後期)

 戦国時代、豊臣秀吉の命を受け小早川隆景が伊予へ侵攻したことにより、
河野氏は降伏、湯築城は開城されました。

その後福島正則、加藤嘉明の入部を経て1635年松平定行が松山城主として入部しました。
松平家はその後明治維新まで松山藩主としての地位を占めることになりますが、
道後温泉は松平定行ほか、代々の松平松山藩主により大きく整備されていくことになります。


松山城天守閣
松山城天守閣


■ 小林一茶来湯(1795年:江戸時代中期)

 俳諧師小林一茶は30歳〜36歳まで俳諧の修行のため、
近畿、四国、九州を歴遊しますが、このとき道後温泉に2度来湯しました。

「寝転んで蝶泊まらせる外湯哉」
という句では、道後ののどかな旅情風景が伺えます。

道後温泉の歴史・・・近代
■ 道後温泉本館 落成(1894年:明治27年)

 明治27年、現在の三階楼作りの形となりました。
この建設は当時町長であった伊佐庭如矢(いさにわゆきや)の発案で行われました。

総工費13万5千円(当時の小学校教師の初任給8円)という法外な予算に町民は驚き、
町の財政が傾きかねない、無謀な投資だと非難が渦巻きました。
しかし伊佐庭如矢は自らの給料を全額温泉建築費用に充てて、
建設の意思を貫き通しました。

今日のような日本を代表する温泉街としての繁栄の基礎を築いた伊佐庭如矢の功績は、
現在の道後にとって非常に大きく、まさに100年先を見据えた計画であったと評されています。


■ 正岡子規、高浜虚子来湯(1895年1896年:明治28年29年)

 俳歌人である正岡子規(まさおかしき)、俳人小説家であった高浜虚子(たかはまきょし)
も道後温泉に来湯したという記録が残っています。

特に正岡子規は病気療養のため松山に帰省した際、夏目漱石と50日あまり同居し、
漱石や虚子を連れ添って道後温泉に入浴したといわれています。
このように、道後温泉は時の文豪にこよなく愛されたようです。


■ 皇太子 嘉仁親王(後の大正天皇)来湯(1903年:明治36年)

 元々健康に恵まれなかった嘉仁親王ですが、
体調が回復した1900年以降には、日本各地を回られました。
この時期に松山へ立ち寄られた際に道後温泉に来湯されたようです。

当時嘉仁親王の風評として「頭が弱く病弱」というものがありますが、
確かに病弱であったものの、とにかく気さくで、
身分に構わず気軽に声をかけた人間味あふれる方だったと記されています。


■ 夏目漱石「坊っちゃん」を執筆(1904年:明治37年)

 道後温泉近代史にとって欠かせないのが夏目漱石とその執筆作品「坊っちゃん」です。

「坊っちゃん」の中で、江戸っ子教師坊っちゃんが温泉で泳いだエピソードがクローズアップされ、
そのエピソードを元に神の湯男子浴室には
「坊っちゃんおよぐべからず」
という板看板が現在も張られています。

夏目漱石は道後温泉本館が落成した翌年(1895年:明治時代)に
松山中学校の英語教師として赴任し、実際に道後温泉に頻繁に通ったようで、
「坊っちゃん」の中で道後温泉を
「温泉だけは立派だ」
と絶賛するほど道後温泉をこよなく愛していました。

夏目漱石の「坊っちゃん」の印象が非常に強いため、
道後温泉本館は通称「坊っちゃんの湯」とも呼ばれています。


■韓国統監 伊藤博文(初代総理大臣)来湯(1909年:明治42年)

 1905年に第二次日韓協約によって大韓帝国が日本の保護国となり、
韓国統監府が設置されると伊藤博文は韓国統監府初代統監に就任しました。
それから4年後、伊藤博文が松山へ来訪した際に道後温泉に来湯されました。


■ 皇太子 裕仁親王(後の昭和天皇)来湯(1922年:大正11年)

 1905年に松山は陸軍療養地とされ、
日本陸軍の重要な拠点と位置づけられることとなります。

1922年に陸軍特別大演習のため皇太子裕仁親王が来松され道後温泉に入浴されました。
ちなみに翌年裕仁親王は陸海軍中佐昇任しますが、
虎ノ門事件(皇太子暗殺未遂事件)に巻き込まれることとなります。


■ 昭和天皇2度目の来湯(1950年:昭和25年)

戦後1946年から9年かけて行われた全国巡幸で松山に立ち寄られた際、
道後温泉本館の又新殿(ゆうしんでん)を利用されました。

道後温泉は日本で唯一の皇室専用浴室(又新殿)があり、
昭和天皇ほか、高松宮殿下、常陸宮殿下も利用されました。


又新殿(ゆうしんでん)
又新殿(ゆうしんでん)


そして現在に至る・・・
posted by あっくん at 02:00 | まるわかり道後温泉