幼少期:望まれなかった子?(1867年:慶応3年〜1884年:明治21年)
夏目漱石は江戸の最末期である慶応3年に江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿)にて生まれました。本名は「夏目金之助」。夏目家は子沢山でしかも母は高齢出産だったことで周囲の人に「めんぼくない」と洩らしたそうです。
夏目家は数代続いている町方明主の家柄でしたが、江戸末期の幕府衰退時期ということもあり、それにあわせて夏目家も没落しつつありました。
そのような時期に誕生した末っ子の「金之助」は生まれて間もなく養子に出されましたが、養子先にて大変不憫な生活をしていることを知り、すぐ実家へ連れ戻されることとなります。
「金之助」1歳のとき、再び父の友人宅へ養子に出されますが、養子先の主人の女性問題による家庭不和により、9歳の頃再び生家へ戻ることとなります。
夏目家は数代続いている町方明主の家柄でしたが、江戸末期の幕府衰退時期ということもあり、それにあわせて夏目家も没落しつつありました。
そのような時期に誕生した末っ子の「金之助」は生まれて間もなく養子に出されましたが、養子先にて大変不憫な生活をしていることを知り、すぐ実家へ連れ戻されることとなります。
「金之助」1歳のとき、再び父の友人宅へ養子に出されますが、養子先の主人の女性問題による家庭不和により、9歳の頃再び生家へ戻ることとなります。
学生期:正岡子規との出会い(1884年:明治21年〜1893年:明治26年)
漱石は1884年、帝国大学(後の東京大学)への登竜門である大学予備門(後の第一高等学校)へ入学し、 1889年同学校にて正岡子規と出会います。
子規が作成した漢詩、俳句などを集めた文集「七草集」が学生の間で回覧され、それを見た漱石が巻末に漢文にて感想を記したことが出会うきっかけとなりました。漱石が書いた漢文のすばらしさにビックリした子規は以降漱石との交流を深めていきます。
その後、漱石、子規ともに帝国大学へ入学します。漱石は英文科に在籍し、英文学を極め「方丈記」などを英訳しました。
子規が作成した漢詩、俳句などを集めた文集「七草集」が学生の間で回覧され、それを見た漱石が巻末に漢文にて感想を記したことが出会うきっかけとなりました。漱石が書いた漢文のすばらしさにビックリした子規は以降漱石との交流を深めていきます。
その後、漱石、子規ともに帝国大学へ入学します。漱石は英文科に在籍し、英文学を極め「方丈記」などを英訳しました。
青年期A:高校の英語教師となる(1893年:明治26年〜1895年:明治28年)
帝国大学を卒業した漱石は、東京高等師範学校の英語教師になりますが、失恋と発病した肺結核が原因で極度の神経衰弱となります。鎌倉にある圓覚寺にて治療に専念しますが、あまり効果も得られず、とうとう逃げるようにして高等師範学校を辞職します。
ちなみに失恋とは、漱石の兄(3番目の兄)の妻であった登世に恋心を抱いていたようで、 1891年登世の死に伴い、心に大きな傷を負ったと言われています。現に登世への気持ちを詠がたくさん残っています。
ちなみに失恋とは、漱石の兄(3番目の兄)の妻であった登世に恋心を抱いていたようで、 1891年登世の死に伴い、心に大きな傷を負ったと言われています。現に登世への気持ちを詠がたくさん残っています。
青年期B:松山への赴任(1895年:明治28年〜1900年:明治32年)
漱石の姿を見かねた菅虎雄(第一高等学校のドイツ語教授)の計らいで、漱石は静養も兼ねて??愛媛県松山市の尋常松山中学(旧松山中学校) に英語教師として赴任することになります。
漱石は、当時病気療養のため松山へ帰郷していた正岡子規に連絡を取り、そこから漱石が下宿していた愚陀仏庵(ぐだぶつあん)にて52日間の共同生活を送りました。
この共同生活の中で、漱石は子規より俳句の手ほどきを受けたり、漱石が小説家になるためのきっかけを作った俳人高浜虚子と親交を深めていくこととなります。
その年の12月、貴族院書記官長であった中根重一の長女鏡子と見合結婚します。
松山赴任の翌年(1896年)漱石は熊本県の第五高等学校(現熊本大学)へ赴任し英語教師4年間務めました。このころ妻鏡子が初子を身籠りますが流産、このことによるヒステリーが原因で、 鏡子は自殺未遂を起こしてしまいます。直後、漱石は就寝時に妻と自分の手首をロープでつないで寝ていたというエピソードから、漱石の妻に対する愛の深さが伺えます。
漱石は、当時病気療養のため松山へ帰郷していた正岡子規に連絡を取り、そこから漱石が下宿していた愚陀仏庵(ぐだぶつあん)にて52日間の共同生活を送りました。
この共同生活の中で、漱石は子規より俳句の手ほどきを受けたり、漱石が小説家になるためのきっかけを作った俳人高浜虚子と親交を深めていくこととなります。
その年の12月、貴族院書記官長であった中根重一の長女鏡子と見合結婚します。
★妻「鏡子」について★ 鏡子は貴族院書記官長を務めた中根重一の長女として生まれ、何不自由なく大切に育てられました。結果それが仇となり、性格はわがまま、発言はズケズケと物を言い、家事が不得意で朝寝坊も多かったようです。さらに結婚後慣れない環境での生活で度々ヒステリーを起こす鏡子を見て、漱石は相当頭を痛めていたようです。 これらのエピソードから世間からは「悪妻」のレッテルを貼られた鏡子ですが、経済的に漱石を支えていたことや、弱者への面倒見の良さ、漱石の暴力にも屈せず周りから離婚を勧められても拒絶した姿から、必ずしも悪妻とは呼べないでしょう。 |
松山赴任の翌年(1896年)漱石は熊本県の第五高等学校(現熊本大学)へ赴任し英語教師4年間務めました。このころ妻鏡子が初子を身籠りますが流産、このことによるヒステリーが原因で、 鏡子は自殺未遂を起こしてしまいます。直後、漱石は就寝時に妻と自分の手首をロープでつないで寝ていたというエピソードから、漱石の妻に対する愛の深さが伺えます。
青年期C:イギリス留学(1900年:明治32年〜1903年:明治35年)
1900年、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、 1903年までの3年間をイギリスで過ごします。
化学者の池田菊苗と同居しながら文学論の研究に没頭しますが、次第に「日本人がなぜ英文学を学ばなければならないのか?」とういう違和感が増大するとともに、東洋人に対する心無い人種差別により心が傷き、次第に神経衰弱となっていきます。
これに伴って同じ留学生仲間の間に「漱石が発狂した」という噂が飛び交い、それを知った文部省は漱石に帰国を命じます。
化学者の池田菊苗と同居しながら文学論の研究に没頭しますが、次第に「日本人がなぜ英文学を学ばなければならないのか?」とういう違和感が増大するとともに、東洋人に対する心無い人種差別により心が傷き、次第に神経衰弱となっていきます。
これに伴って同じ留学生仲間の間に「漱石が発狂した」という噂が飛び交い、それを知った文部省は漱石に帰国を命じます。
青年期D:作家夏目漱石の誕生(1903年:明治35年〜1909年:明治41年)
帰国後、漱石は東京帝京大学(現東京大学)の講師として招かれました。 小泉八雲(イギリスから日本に帰化した小説家)の後任人事だったようですが、漱石の講義は不評だったようです。
また予習をしてこない生徒を叱り付けると、その生徒がショックで自殺してしまい、それを自分の責任と強く思い込んでしまった漱石は、さらに神経衰弱となっていきます。
漱石の身を案じた高浜虚子(俳人)は、精神安定のためにと小説を書くことを勧めます。そのようにして生まれたのが処女作「吾輩は猫である」です。当初は短編読みきり小説として、俳句誌「ホトトギス」に掲載されましたが、好評を博したため続編を執筆することとなります。
自分が執筆した小説が好評を博すにつれて自信を深めていき、小説家の道へ突き進んでいくこととなります。
これが小説家「夏目漱石」の誕生です。「吾輩は猫である」執筆の後に「倫敦塔」「坊っちゃん」と立て続けに発表し、小説家漱石として次第に認知されていくようになります。
また予習をしてこない生徒を叱り付けると、その生徒がショックで自殺してしまい、それを自分の責任と強く思い込んでしまった漱石は、さらに神経衰弱となっていきます。
漱石の身を案じた高浜虚子(俳人)は、精神安定のためにと小説を書くことを勧めます。そのようにして生まれたのが処女作「吾輩は猫である」です。当初は短編読みきり小説として、俳句誌「ホトトギス」に掲載されましたが、好評を博したため続編を執筆することとなります。
自分が執筆した小説が好評を博すにつれて自信を深めていき、小説家の道へ突き進んでいくこととなります。
これが小説家「夏目漱石」の誕生です。「吾輩は猫である」執筆の後に「倫敦塔」「坊っちゃん」と立て続けに発表し、小説家漱石として次第に認知されていくようになります。
晩年期:大患そして終焉(1909年:明治41年〜1916年:大正4年)
「慮美人草」を執筆した後は、満州・朝鮮の記録旅行に出かけ、帰国後「三四郎」「それから」を執筆。そして「門」を執筆中に胃潰瘍が原因で大量の吐血をし、生死の淵をさまよいます。
奇跡的に一命を取り留めた漱石は養生の後も執筆活動を行っていきましたが、度重なる胃潰瘍と痔に苦しめられ入退院を繰り返します。そんな生死の狭間を経験する中で書き上げたのが「彼岸過迄」「行人」「こころ」です。
最晩年は糖尿病も発病し1916年(大正4年)「明暗」を書き上げる前に死去しました。享年50歳。
夏目漱石の死後、遺体は東京大学にて解剖されており、脳は現在でもアルコール漬けにされて東京大学医学部に保存されています。
奇跡的に一命を取り留めた漱石は養生の後も執筆活動を行っていきましたが、度重なる胃潰瘍と痔に苦しめられ入退院を繰り返します。そんな生死の狭間を経験する中で書き上げたのが「彼岸過迄」「行人」「こころ」です。
最晩年は糖尿病も発病し1916年(大正4年)「明暗」を書き上げる前に死去しました。享年50歳。
夏目漱石の死後、遺体は東京大学にて解剖されており、脳は現在でもアルコール漬けにされて東京大学医学部に保存されています。

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