幼少期:俳句の巨人誕生(1863年:慶応3年〜1883年:明治16年)
正岡子規(本名:正岡常規 まさおかつねのり、幼名:處之助・後に升)は現在の愛媛県松山市花園町(当時:伊予国温泉郡藤原新町)にて松山藩士、正岡常尚の長男として生まれました。
幼少時代の子規は病弱でいじめられっ子だったようで、ケンカで負けて帰ってくると、妹が石を持って家を飛び出し、敵討ちをしたというエピソードも残っています。
父の正岡常尚は1972年(子規が9歳)の頃死去したため、母方の大原家の庇護を受け育てられていきます。母正岡八重の父である儒学者の大原観山は子規を大変可愛がり、子規に漢文や漢詩を教えてました。このことが、俳句の巨人正岡子規が誕生した土壌となっているといっても過言ではありません。
幼少期の友人には秋山真之(後の大日本帝国海軍中将)や勝田主計(後の大蔵大臣、文部大臣)など後の日本を大きく動かしていく偉人たちがおり、幼少時代から彼らと文学、政治に関して熱い談議を繰り広げ、感性を刺激し合いながら成長していったようです。現に秋山真之は子規の進学上京に刺激を受けて、彼も上京したといわれています。
幼少時代の子規は病弱でいじめられっ子だったようで、ケンカで負けて帰ってくると、妹が石を持って家を飛び出し、敵討ちをしたというエピソードも残っています。
父の正岡常尚は1972年(子規が9歳)の頃死去したため、母方の大原家の庇護を受け育てられていきます。母正岡八重の父である儒学者の大原観山は子規を大変可愛がり、子規に漢文や漢詩を教えてました。このことが、俳句の巨人正岡子規が誕生した土壌となっているといっても過言ではありません。
幼少期の友人には秋山真之(後の大日本帝国海軍中将)や勝田主計(後の大蔵大臣、文部大臣)など後の日本を大きく動かしていく偉人たちがおり、幼少時代から彼らと文学、政治に関して熱い談議を繰り広げ、感性を刺激し合いながら成長していったようです。現に秋山真之は子規の進学上京に刺激を受けて、彼も上京したといわれています。
学生期:夏目漱石との出会い(1883年:明治16年〜1892年:明治25年)
上京後、進学予備校の共立学校(現在の開成高校)を経て、翌年東京大学予備門に見事合格し入学します。ところが東京大学予備門ではなかなか勉強について行く事ができず1885年には落第してしまいます。
ちなみに、後に出会う夏目漱石も、勉強を怠け同じ高校で落第しました。これに懲りた漱石は翌年から猛勉強し、結果成績トップで試験をパスしたそうです。
1889年同学校にて夏目漱石と出会います。子規が作成した漢詩、俳句などを集めた文集「七草集」が学生の間で回覧され、それを見た漱石が巻末に漢文にて感想を記したことが出会うきっかけとなりました。漱石が書いた漢文のすばらしさにビックリした子規は以降漱石との交流を深めていきます。
同年、子規は初め喀血します。これが子規と病気の戦いの始まりでもありました。彼はこの喀血を「血を吐くまで鳴くホトトギス」と重ね合わせ、自分自身のペンネーム(雅号)をホトトギスとしました。
※喀血(かっけつ):吐血とは異なり、咳や痰に混じって血液が出るもので、肺結核などを煩った場合に出てくる症状。
1890年、第一高等中学校本科卒業の後、帝国大学(現在の東京大学)文科大学哲学科入学に入学し、翌年国文科に転科します。ところが俳句に魅せられ、俳句の創作に取り付かれていた子規は、落第を期に大学を退学してしまいます。
ちなみに、後に出会う夏目漱石も、勉強を怠け同じ高校で落第しました。これに懲りた漱石は翌年から猛勉強し、結果成績トップで試験をパスしたそうです。
1889年同学校にて夏目漱石と出会います。子規が作成した漢詩、俳句などを集めた文集「七草集」が学生の間で回覧され、それを見た漱石が巻末に漢文にて感想を記したことが出会うきっかけとなりました。漱石が書いた漢文のすばらしさにビックリした子規は以降漱石との交流を深めていきます。
同年、子規は初め喀血します。これが子規と病気の戦いの始まりでもありました。彼はこの喀血を「血を吐くまで鳴くホトトギス」と重ね合わせ、自分自身のペンネーム(雅号)をホトトギスとしました。
※喀血(かっけつ):吐血とは異なり、咳や痰に混じって血液が出るもので、肺結核などを煩った場合に出てくる症状。
1890年、第一高等中学校本科卒業の後、帝国大学(現在の東京大学)文科大学哲学科入学に入学し、翌年国文科に転科します。ところが俳句に魅せられ、俳句の創作に取り付かれていた子規は、落第を期に大学を退学してしまいます。
青年期A:ジャーナリスト子規(1892年:明治25年〜1895年:明治28年)
1892年大学を退学した子規は、その頃すでに連載を持っていた日本新聞社に入社し、新聞に俳句掲載の欄を新たに掲載し始めました。
1895年、日清戦争の従軍記者として中国へ赴くこととなります。これは正岡子規本人の強い希望で実現した人事で、日本新聞社社長の陸渇南は病人である子規の体を案じ、当初は反対していましたが、子規の強い意志に負けたといわれています。
戦地では、当時陸軍の軍医部長をしていた森鴎外と出会い、俳句談議に華を咲かせました。2人は帰国後も親交を深めていくこととなります。
しかし、この従軍記者という仕事は、確実に子規の病魔を進行させ、帰国途中の船の中で大喀血し、帰国後は神戸の病院に入院の後、故郷の松山へ帰郷することとなります。
1895年、日清戦争の従軍記者として中国へ赴くこととなります。これは正岡子規本人の強い希望で実現した人事で、日本新聞社社長の陸渇南は病人である子規の体を案じ、当初は反対していましたが、子規の強い意志に負けたといわれています。
戦地では、当時陸軍の軍医部長をしていた森鴎外と出会い、俳句談議に華を咲かせました。2人は帰国後も親交を深めていくこととなります。
しかし、この従軍記者という仕事は、確実に子規の病魔を進行させ、帰国途中の船の中で大喀血し、帰国後は神戸の病院に入院の後、故郷の松山へ帰郷することとなります。
青年期B:漱石との共同生活(1895年:明治28年)
松山に帰郷した子規は、当時松山市の尋常松山中学に英語教師として赴任していた夏目漱石を訪ねます。漱石は2階建ての下宿屋「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」に居を構えており、これを期に、子規が1階、漱石が2階で共同生活するようになりました。
愚陀仏庵にて生活を送る子規の下へ、松風会のメンバーや高浜虚子などの俳句の門下生たちが毎日のように集い句会が開かれていたようで、漱石もこの時期に子規から俳句を学びます。
愚陀仏庵にて生活を送る子規の下へ、松風会のメンバーや高浜虚子などの俳句の門下生たちが毎日のように集い句会が開かれていたようで、漱石もこの時期に子規から俳句を学びます。
■晩年期:(1895年:明治28年〜1902年:明治35年)
漱石との52日間という短い共同生活を経て、子規は再び東京へ上京します。この頃から子規は腰痛に悩まされ、歩くのもままならないほどでした。本人はリュウマチと思っていたようですが、翌年に肺結核からの脊髄カリエスと診断されます。
何度か手術を受けますが、病状は悪化の一途をたどり、次第に背中に穴が開き膿が流れ出るようになりました。
子規が没する3年前からは、身動きもままならない状態となり、寝たきりになりながらも、後進の育成に努めつつ、死ぬ間際まで俳句を作り続けたそうです。短い生涯の中で子規が詠んだ俳句の数は約23600句。
1902年9月19日、子規永眠 享年34歳
何度か手術を受けますが、病状は悪化の一途をたどり、次第に背中に穴が開き膿が流れ出るようになりました。
子規が没する3年前からは、身動きもままならない状態となり、寝たきりになりながらも、後進の育成に努めつつ、死ぬ間際まで俳句を作り続けたそうです。短い生涯の中で子規が詠んだ俳句の数は約23600句。
1902年9月19日、子規永眠 享年34歳
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